岬・紹介(北海道の岬)
岬・紹介(北海道の岬)は、海上交通の難所であった北海道を代表する五大岬やその他の岬などの名の由来や歴史をご紹介。
(北海道の岬)
江戸時代までは、海上交通が中心で函館や松前、江差までが和人地でその他の地域は、アイヌ民族しかいない未開発の地として和人が多く定住する事を嫌った徳川幕府は、女人禁制の地として岬を境界線としたほか、海底の地層が入り組んでいたり岩礁が多く船の航行に注意が必要な岬が多くあった。その岬の名の由来や歴史などをご紹介。
北海道五大岬
江戸時代の昔から北海道の海上交通の難所として有名な神威岬や宗谷岬、北見神威岬、襟裳岬、納沙布岬の歴史や物語を紹介。
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(神威岬・積丹)
北海道でも有数な美しい海岸線や景勝地である積丹半島。その中で特に積丹岬と神威岬は、絶景です。特に積丹岬には、島武意海岸があり、日本の渚百選にも選ばれた景勝地と積丹ブルーとも言われる海の色が美しい場所です。 |
(1)神威岬
ニセコ積丹小樽海岸国定公園の積丹半島の北西端に位置し江戸時代には、蝦夷三嶮地の一つとして海上交通の難所としても恐れられていた神威岬は、日本海の荒波によって侵食されてできた北海道でも有数の景勝地で昔から伝説の多い場所としても有名です。
安政3年(1856)以前は、この岬から北の奥地は女人禁制の地であった。一説ではあるが松前藩はアイヌとの交易権が収入源であったことから和人が奥地に住みつかれることを嫌い「神威岬より北、婦女子の通行を禁じ、和人の土着を許さない」ということが何時しか女性を乗せて岬越えをすると神威岬に棲む魔神が女を乗せた船がこの岬を通るたびに必ず大時化を起こし船もろとも海底にひきずり込むという伝説となったと言われています。また女人禁制は、アイヌ娘(シェレンカ)の呪いとゆう言い伝えもあります。
これは、悲劇の英雄義経主従が日高アイヌの所に滞在した時、アイヌの娘(シェレンカ)と恋におちたが大望を抱く義経は、北へと向かい義経を慕うアイヌの娘は、義経を追って神威岬まで着たが義経一行は出発した後であった。娘は、泣き狂い「和人の船婦女を乗せてここを過ぐれば覆没せん」と叫んで海中に身を投じたのである。その娘の化身といわれるのがメノコ岩であると言い伝えられています。
江差追分にも、妻子や愛人を残し、この恐ろしい海峡を越えて奥地に向かう人々の別離の哀しみを切々に歌い上げた歌詞もあり、魔の海域であったことがうかがえます。
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(宗谷岬・稚内)
日本最北の岬で宗谷丘陵の北側に位置する岬です。宗谷丘陵は、山火事によって木々が焼かれ宗谷の風が強い事から木々が育たず今の丘陵となっています。 |
(2)宗谷岬
オホーツク海に面し宗谷丘陵の先端に位置し日本最北の地である宗谷岬は、晴れた日には43kmの洋上にサハリンが望めます。宗谷岬は、江戸時代から北方警備の地としてロシアへの軍事基地として栄えた所でもあります。明治34年に建設された旧海軍望楼が当時の緊張した情勢を物語っています。
慶長8年、松前藩領になったとき、宗谷に利尻・礼文・樺太を司さどる役宅が置かれたのが和人による歴史の始まりです。
文化4年、ロシア艦船の来航に備え、津軽・会津の両藩兵が交代で警備にあたった。この警備は明治維新の直前まで続けられた。
文化5年(1808)には、間宮林蔵と松田伝十郎らがこの宗谷岬から樺太に渡りました。他には、最上徳内や近藤重蔵・松浦武四郎などが宗谷岬の歴史に足跡を残しています。
この宗谷岬を舞台にした井上靖の「魔の季節」や辻邦生の「北の岬」・八木義徳の「海豹」などがあり、北原白秋・斉藤茂吉・土屋文明など多くの詩人・歌人・俳人がこの地を訪れ作品を残しています。
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(北見神威岬・枝幸)
オホーツク海に突き出している北見神威岬。岩礁が広がっている為に海岸に近寄ると岩礁に当り転覆する事から昔から恐れられていた岬です。
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(3)北見神威岬
青黒く広いオホーツク海に突き出すように北見神威岬があります。オホーツク海の荒波にあらわれた岩礁群があり古来より宗谷と枝幸とを遮断して人々の往来や物資の交流に障害を与えた海上交通の難所でした。
作家の辻邦生は「荒涼の地の果て」に岬の印象を書いているのを始めオホーツクの旅情とロマンなど、この海を舞台に書かれた小説が渡辺淳一の「流氷の旅」や辻邦生の「時の扉」・源氏鶏太の「流氷」などがあります。
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(襟裳岬・えりも)
歌にもなっている襟裳岬は、風の強い岬で風速10mを越える風が一年に300日も吹くと言われる岬です。この時は、台風の通過後でもあり、海は、荒れていたが風は、無い日でした。 |
(4)襟裳岬
北海道の日高山脈の南端に位置する襟裳岬は、日高山脈の一部が海中に約1.3qにも達する干出礁脈を形成し、怒涛と戦って削り取られた岩礁や断崖絶壁が深く海中に走り豪放な景観を呈する岬です。この岬は、沖合い遠く無数の暗礁が散在し風波が絶えず、春や夏の頃には濃霧により難破する船が多かった事から古来から魔の海と恐れられていました。
明治に入っても岬を越える道は険しく十勝の祖、依田勉三は移民を連れて日高から十勝に向かったとき、磯を伝い、岩に梯子をかけ互いに手を取り合ってこの海岸線を歩いたと日記に残している事からもこの岬が交通の難所であったことが窺えます。
岬の東側には、百人浜という砂浜が荒涼と続く、この浜の地名の由来は、文化年間南部藩の御用船がこの沖で難破し百人の乗組員が浜にやっとたどり着いたものの寒さと飢えで全員が死亡したものと言われています。襟裳岬から北上すると海岸に落ち込む絶壁を削って縫うように国道が走っています。通称「黄金道路」と呼ばれていて建設には、8年の歳月と莫大な費用が掛かったことから黄金を敷き詰めた様な道路と言われこの様な呼び名がついた。
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(納沙布岬・根室)
北海道の最東端の岬で北方領土に最も近い場所です。運が良ければブルーアワーが撮れる岬でもあります。 |
(5)納沙布岬
根室半島(花咲半島ともいう)の東端に位置し、歯舞群島・色丹島・国後島・択捉島の北方領土を望む北海道最東端の岬で、また、朝日が一番早く見られる岬として全国に有名です。ロシアとの国境は、岬から珸瑶瑁水道(ごようまいすいどう)の3.7q沖の無人島貝殻島との中間にあります。この岬は、昔からガスと呼ばれる海霧が年間50日以上発生し、珸瑶瑁水道は、海流が激しく暗礁も多いことから船乗り達には魔の海と恐れられていた。
この岬の突端に建つ燈台は北海道では、最初の本格的な燈台として建てられたものです。また岬には「寛政の乱 和人殉難墓碑」が立っています。この墓碑は、アイヌ民族と和人の最後の戦いと言われている「国後・目梨の乱」によって死亡した和人を祭ったものです。この岬を題材にした小説が火野葦平の「氷と霧」や水上勉の「海の墓標」・渡辺淳一の「北方領海」・西本正明の「オホーツク諜報船」などがあります。
その他の北海道の岬
(1)雄冬岬(石狩市旧旧浜益〜増毛・北海道三大秘岬))
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アイヌ語の「ウフイ」(燃える様な夕日)の意味で雄冬海岸に位置する断崖の中にある岬で標高135mの岬です。昔は、陸上交通の難所であり、海上交通でしか通過する事が出来なかった為に北海道三大秘岬のひとつとされていた。ちなみに北海道三大秘岬は、雄冬岬、地球岬、落石岬である。 |
(2)地球岬(室蘭市・北海道三大秘岬)
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岬の名の由来は、アイヌ語の「チケプ」(断崖)の訛った「チキウ」に対する当て字であると言われています。地球岬は、室蘭八景のひとつで標高131m、光達25海里の「日本の灯台50選」にも選ばれた地球岬灯台があり、地球岬周辺は、海抜100m前後の断崖が約14kmに渡って連なっている岬です。 |
(3)落石岬(根室市・北海道三大秘岬)
落石岬は、1643年にオランダの探検家が根室を訪れた際に落石岬を見て「マンスホーフト(人頭)岬」と名付け世界に紹介したのが始まりで落石岬の海岸線は、高さ約50mの断崖絶壁になっていますが岬の内陸部は、平坦な台地になっていて落石岬湿原が広がる風光明媚な岬です。落石岬には、明治23年に落石岬灯台が設置されました。現在の灯台は、1952年に建て替えられた物で「日本の灯台50選」のひとつで標高48m、高さ10mの四角い灯台です。また、日本の南限と言われている国の天然記念物の「サカイツツジの自生地」で6月上旬には、紅紫色の花を咲かせる貴重な岬でもあります。 |
(4)ウスタイベ岬(枝幸町)
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岬の地名の由来は、アイヌ語の「ウシタイベ」(入り江の林の川)の意味で約31?の広大な安山岩の奇岩石が岬の先端にあり、ブロック状になって並んでいる事から千畳もの広さがあるとしてウスタイベ千畳岩と名付けられています。冬になると流氷が押し寄せ千畳岩にも流氷が直接接岸する事から流氷撮影のビュースポットとしても有名です。 |
(5)能取岬(網走市)
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オホーツク海に突き出した岬で冬の流氷の絶景のポイントで遠方には、知床連山も眺望出来る岬です。岬の周辺には、牧場が広がり、オホーツク海の水平線も望め、岬には、大正6年に建設された八角形の洋風白黒の高さ21mの灯台があります。 |
(6)立待岬(函館市)
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地名の由来は、諸説ある様ですがアイヌ語の「ピウス」(漁師がクジラを発見する為に見張りをして立って待っていた)からと言われています。岬一帯は、斜長石(しゃちょうせき)や角閃石(かくせんせき)などからなっていて函館五稜郭築城の際の石垣の一部にも使用されています。 |
(7)鮪ノ岬(しびのみさき・乙部町)
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岬の形が鮪(まぐろ)の背に似ている事や独特の岩肌が鮪のうろこの様に見える事から鮪(しび)の岬と呼ばれる様になった。この岩肌は、柱状節理と呼ばれる岩で昭和47年に北海道の天然記念物に指定されている岬です。 |
(8)の岬(乙部町)
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白亜の断崖が東洋のグランドキャニオンとも呼ばれ、長い歳月をかけて波が刻んだ彫刻であり、太陽の陰影によって様々な表情を見せてくれる断崖です。
断崖は、凝灰質砂岩互層、粗粒砂岩層など海底に堆積した地層が陸上に隆起したものです。また、「の岬の悲恋物語」の伝説が残っている岬です。 |
(9)積丹岬(積丹町)
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アイヌ語の「シャク・コタン」(夏の村)が語源で、岬一帯が高さ100mを超える断崖絶壁となっていて日本海の荒波が激しく長年にわたって削られた岬です。また、奇岩断崖が卓越する変化に富んだ海岸線が見られます。 |
(10)恵山岬(函館市)
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津軽海峡と太平洋に突き出す岬で「日本の灯台50選」にも選ばれた白亜の大型灯台があります。
恵山岬は、標高618mの「恵山」の山裾で恵山つつじ公園や恵山登山が出来る場所でもあります。 |
(11)愛冠岬(厚岸町)
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アイヌ語の「アイ・カップ」(矢が届かない)または(道として超えられない)などの「出来ない事」を意味する事から「困難を乗り越え、愛の栄冠を得る」がら地名を「愛冠」の漢字を充てたとされています。
厚岸を代表する景勝地で奇勝「尻羽岬」と相対して厚岸湾に頭を突き出している岬で数十メートルの断崖や大黒島、小島などが望める景勝地です。 |
(12)花咲岬(根室市)
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根室十景のひとつで花咲港を一望できるほか、花咲灯台もあります。花咲灯台は、「日本の灯台50選」にも選定されています。灯台の下には、根室車石が見られます。根室車石は、花咲岬付近一帯に分布する玄武岩の放射状板状節理で出来ている国の天然記念物でもあります。 |
(13)汐首岬(函館)
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青森県大間町から津軽海峡を隔てて直線距離で17.5kmしかなく下北半島が見渡せる岬です。北海道と本州の最短地点で津軽海峡の最も狭い場所です。
日露戦争の頃には、ロシアのバルチック艦隊やウラジオストック艦隊に対し砲台が築かれ緊張状態にもなった岬です。 |
(14)サラキ岬(木古内町)
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昭和59年に咸臨丸の錨が発見されて話題になった岬です。かつては、石と砂しかない岬でしたが2001年にチューリップの球根が寄贈されたのをきっかけにチューリップの名所ともなった岬です。咸臨丸とは、徳川幕府の洋式軍艦であったが戊辰戦争に参加するも他艦に劣り、輸送船となり、明治4年に片倉氏の家臣401名を乗せキサラ沖で暴風雨で破船、沈没した船です。 |
(15)白神岬(松前町)
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北海道最南端の岬で本州の最北端の大間岬よりわずかに南に位置する岬です。津軽半島の最北端の竜飛岬と距離で19.2kmで白神灯台があリます。また、日本有数の渡り鳥の中継地として年間約100万羽の渡り鳥が津軽海峡を渡って行く岬です。白神灯台は、北海道最南端に位置し標高20mの高台に塔高17mの灯台です。 |
(16)霧多布岬(浜中町)
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正式には、湯沸岬と呼ぶが岬全体を霧多布岬を呼ぶ岬でアイヌ語の「トッカリ」(アザラシ)を見る事が出来る事から「トッカリ岬」とも呼ばれています。岬は、標高40m〜60mのテーブル型で海岸は、ローソク岩などの切り立った断崖絶壁の崖が続く岬です。霧多布の語源は、アイヌ語の「キータプ」(茅をかるところ)の意味と言われています。 |
(17)弁慶岬(寿都町)
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アイヌの人達は、この岬一帯を「ポロ・エド」(大きな鼻の形の岬)の意味だそうだがこの岬の先端が裂けた様になっている事からアイヌ語の「ベルケイ」(裂けたところ)の意味を和人が「ベンケイ」と訛って名付けたを言われています。また、弁慶岬の伝説も残されています。 |
(18)黄金岬(留萌市)
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日本海に沈む夕陽が絶景なポイントで「日本の夕陽百選」にも選ばれている岬で冬には、珍しい「けあらし」が見られる岬でもあります。
「けあらし」とは、北海道の方言で放射冷却により冷え込みが強まった日に内陸や山地の空気が冷やされ、その空気が暖かい海面上に流れ込むと水蒸気の急激な蒸発により霧が発生する事で起こる現象。 |
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