小林多喜二の「不在地主」の題材となった小作人争議のひとつである富良野の磯野農場の小作人争議をご紹介
小林多喜二の「不在地主」の題材となった小作人争議のひとつである富良野の磯野農場の小作人争議をご紹介

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小林多喜二の「不在地主」の題材となった小作人争議のひとつである富良野の磯野農場の小作人争議をご紹介

富良野磯野農場小作人争議


富良野磯野農場小作人争議は、小林多喜二の「不在地主」の題材となった小作人争議のひとつである富良野の磯野農場の小作人争議をご紹介。




(富良野磯野農場小作人争議)
日本における三大小作人争議や国からの払い下げによる不在地主、不在地主と小作人の関係、北海道の戦前における数少ない農地解放した有島農場や徳川農場と裁判にまでなった磯野農場。そのひとつの富良野の磯野農場小作人争議の起こりから地主の磯野氏の地元の小樽を舞台にした労働組合や小作人と地主側の警察との攻防、裁判の結果などをご紹介。




富良野磯野農場小作人争議


 農魂の碑  (農魂の碑・富良野)
小作人争議により北海道でも数少ない戦前に農地開放した地区です。小樽の労働組合や農業団体、小樽市民を巻き込んだ争議となった。


漁業が中心であった北海道において明治政府の殖産政策により本州から送り込まれた農民!多くが自作農に成れず大農場の小作となっていった時代の農場主と小作人との争議!磯野農場の小作人争議が労働組合を始め小樽市民、警察、裁判所などを巻き込み全国の小作人争議のはしりとなった事件!富良野磯野農場小作人争議を紹介します!


(1)日本の三大争議

小作人争議の代表的なものとして知られているのが1924年(大正13年)香川県の伏石事件、1921年(大正10年)群馬県の強戸争議、新潟県の木崎争議が有名ですが大正末期頃までの小作人争議は、地主側が守勢にまわり、昭和5年の農業恐慌からは農民側が守勢にまわった時代でもあります。


(2)不在地主

北海道では、1897年(明治30年)頃から開拓資金を得るために国有地の払い下げを始めた事により、華族や大金持ちに何百町歩、何千町歩の広さの土地がタダ同然の価格で払い下げられた。これにより地主が東京や札幌、小樽などに住む不在地主が多くなった。


(3)小作人

本州で食えなくなった農民に対して国の政策により移住農民を募った。しかし移住農民には、優良地は与えられなくて釧路、根室などの泥炭地が与えられた事から開墾補助費は1年でなくなり低利資金を借りるが土地を畑に変えるには5、6年かかる事から借金が増え不在地主の小作人になった開拓農民もいたし国の募集を聞き何年か後には土地が持てる資金が貯まると信じて不在地主の小作に入った農民もいた。小作人は、地主に対し小作料を払い土地を借りるがこの小作料がしばしば問題を起こした。


(4)北海道の小作争議

北海道での最初の小作争議は、1906年(明治39年)比布殖産会社と小作人との紛争で、ついで1908年の余市郡仁木村の毛利農場、1915年の帝国製麻会社美瑛農場、1920年の岩崎男爵の農場で小作人の紛争があった。北海道で組織的な小作人争議としての最初は、1920年(大正9年)に上川郡神楽村上川御料地の小作人争議で農民大会が開かれ、1923年に解決した。同じく1920年に小作料の値上げをはかった蜂須賀農場の争議も始まり1931年(昭和9年)まで6回にわたる大争議が繰り返された。


(5)磯野農場小作人争議

磯野農場の争議がなぜ北海道を代表する様な争議なのかと言うと地主の磯野氏が小樽商業会議所の会頭であった事や小作人の支援に日本農業組合諸団体や労働組合諸団体が提携して支援をした事、小樽市民をも巻き込み市民の支援もあった事、争議が小作人の地元富良野ではなく小樽であった事などが今までには無かった争議形態となり、特に農業組合や労働組合が提携し争議を支援した事がはしりとなり全国に広がっていった事である。


(6)磯野農場争議の起こり

磯野農場は、空知郡下富良野村に約250町歩の土地を有する北海道でも中位の農場で内50町歩は北海道大学演習林に与えていた事から約200町歩が農地であった。小作人は、約48戸約家族合わせて200人とも言われています。農場は、富良野でも低い場所であった為に排水が悪く雨が続くと耕地が泥沼になる為に収穫も他の農場の半分で小作料も5〜6割で富良野では一番高かった。争議の起こりは、1926年(大正15年)の十数年来の冷害大凶作になった事から1926年に小作人達の小作料の値下げと凶作による減免を要求したが磯野は、これを要求を拒否し逆に磯野は、畑作から水田による稲作になった事から水田小作料に切り替えると通告、解決の見通しはついに立たなかった。
1927年(昭和2年)に小作人に対し磯野は、土地返還と家財差押えの訴訟を旭川区裁判所に起こした。このときに提出された地主と小作人との契約書が解決のきっかけとなった。


(7)小作人が小樽へ

1927年(昭和2年)交渉が行き詰まり小作人代表27人が地主がいる小樽へ小作米を売り旅費をつくり旅立った。当初の小作人の希望は「こういう苛酷な時は年貢を納められないから親父(磯野)に事情を言って頼もう、何とかすがろう」としたが磯野が拒否した為に37日間小樽に滞在する事になった。

 小樽運河  (小樽運河・小樽)
小樽運河から沖の船まで運搬していた小舟の労働者団体も参加した争議は、凄まじいものであったとも言われています。


(8)小樽での争議

3月、小作人代表27人は、小樽合同労働組合の約200人の組合員に出迎えられ小作人代表が雪の上に両手をついて「よろしくお願いします」と言って、ただちに磯野商店、磯野宅、関係の工場、商業会議所へデモ行進を行った。何度も執拗に磯野との面会を求めたが断られ続け仕舞いには、官憲の弾圧により検挙者が出るまでに至ったが演説会、市民などへのビラの配布により小樽市民14万人の関心の的になっていった。


(9)全小樽陸産業労働者会議

事態を見た小樽警察署は、双方を招き調停を試みたが小作人の要求を磯野が全面的に拒否した事から警察側も手を引いて解決の糸口が見えない状態になっていった。3月12日に全小樽陸産業労働者会議が磯野の荷物の陸揚げを拒否してストライキを決行、また磯野の商品の不買運動を決行する事を決議した。


(10)裁判所での会見

旭川区裁判所は、小作人代表を出頭させ調停の下調べをすると言って小作人代表に対し「お金が無いと言いながら小樽で何故騒いでいるのか」と威嚇したり「おまえ達を騒いで勝たすと外の小作人が頭をもたげて困る」などと言った。また、小作人が捺印した覚えのない小作契約書を見せた。この契約書が後に偽装と判ると「これが事実だとすれば重大問題だ!」と言った。この契約書が磯野を窮地に追い込みそれまで磯野を支援していた小樽の事業主も磯野の善処を望み始めた。


(11)結末

磯野は、市会議員の調停に応じ、労組、農組代表、市会議員、弁護士、新聞記者らの立会いで交渉を開始、徹夜で交渉をして小作料を4割、土地の明け渡し・差押えを取り下げ小作人の要求を全部受け入れた。この勝利が日農と小樽合同との完全な労農提携の勝利であった。


(12)その後の農場

磯野は、管理人を替え農場に足を運ぶ様になりその後は争議や揉め事が無くなった。後に磯野は、次男に農場経営を譲り次男は、小作人達に10年間働いたら解放すると言い父に許可をえず客土・排水をし昭和16〜17年に土地を解放した。戦前に農地を解放したのは、有島農場と磯野農場くらいで日本でも数少ない例です。


補足

本文は、磯野農場小作人争議の概略を掲載しました。農業団体、労働団体の名称は合併や変更により変わっている場合もあります。尚、磯野農場小作人争議を題材にした小説が小林多喜二の「不在地主」です。


































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