北海道防衛の為の礎を築いた士族平民屯田兵制度の生い立ちや歴史、屯田兵が残した業績などをご紹介
海道防衛の為の礎を築いた士族平民屯田兵制度の生い立ちや歴史、屯田兵が残した業績などをご紹介

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北海道防衛の為の礎を築いた士族平民屯田兵制度の生い立ちや歴史、屯田兵が残した業績などをご紹介

屯田兵制度


士族平民屯田兵制度は、明治政府により北海道の開発と北海道の防衛の礎を築いた士族平民屯田兵制度の生い立ちや歴史、屯田兵が残した業績などをご紹介。



(士族・平民屯田兵制度)
屯田兵制度の事の起こりは、戊辰戦争の時に旧幕府軍に参加していた東北武士の敗北による武士団の生活困窮による明治政府に対する不満解消と明治政府による北海道の開拓、北海道により多くの人々を移住させる為に兵農一致を原則として札幌を中心に東北武士を中心に入植した士族屯田、帝政ロシアの南下策に対する本州防衛の為に更なる北海道開拓の推進と人口増の為に北海道中央部の開墾、その礎を築いた平民屯田兵制度をご紹介。




士族平民屯田兵制度


 兵村記念館  (兵村記念館・旭川)
平民屯田兵の当時の貴重な資料や生活、歴史などが解りやすく展示されている記念館です。また、加藤隼戦闘隊の加藤建夫の出身地である事から資料も展示されています。


(1)屯田兵制度の起こり

屯田兵制度の起こりは、薩摩と長州が薩長同盟を結び明治維新が起きたのがきっかけである。鳥羽・伏見の戦いから戊辰戦争が始まり、戦火は、次第に東北地方まで広がり、特に仙台藩などの東北地方は、激戦地となった。最後は、北海道の函館までおよび函館戦争で終結した。薩摩・長州の新政府軍と旧徳川幕府軍の戦いは、新政府軍の勝利で幕を閉じた。旧徳川幕府軍は、賊軍とされた旧徳川幕府軍を加勢した東北地方の諸藩は、石高を減らされ藩主は、家臣を養う事がままならない状態に置かれた。特に仙台藩の武士達の生活は、困窮していった。
明治政府は、士族の不満緩和のため「士族授産」と「兵農一致」の名目で北海道の札幌を中心に東北の武士達を多く送り込んだ。


(2)最初の団体移民

北海道への最初の団体移住は、仙台藩亘理伊達邦成であった。家臣1300戸を抱えどうにもならなくなった邦成は、「兵農相兼」を強調して太政官に懇願、明治2年に北海道の現在の伊達市に入植したのが団体移住の始まりであった。当時は、まだ、屯田兵制度が創設されていない事もあり、あくまでも移住であったが努力と苦労の末、現在の羊蹄山山麓の真狩村まで開墾をした。ちなみに逸話として、開墾当時は、鍬や斧などの鉄製品が開墾で傷み不足していた事から鍛冶屋に殿様の兜を溶かして鍬や斧にする様に言われたが大切な物である事から溶かす事無く現在も保管されていると言われています。また、地名からは、札幌市の白石区が明治4年、仙台藩の白石城主、片倉小十郎の家臣の人々が開墾の鍬を入れた事から地名になったと言われいます。


 屯田兵兵舎  (屯田兵兵舎)
屯田兵の住居で板壁であったがゆえに冬は、アイヌ民族の住居の「チセ」よりも寒いと言われていました。また、一部の屯田兵の住居は、囚人が建てた物もあった様です。

(3)士族屯田兵の始まり

北海道への移住の成功は、伊達士族団の功績が大きかったと思われます。江戸時代からも北方警備の事からしばしば東北武士達を送り込んでいたがことごとく北海道の苛酷な環境によって失敗していた。
伊達士族団の成功が国境の島・北海道に多くの人々を送り込むきっかけとなり、更に常備兵鎮台が設置されていない事などから明治7年、屯田兵制度が制定された。
明治8年、宮城・青森・酒田(山形)の東北三県や戊辰戦争を経験した士族、198戸、965人が琴似に入植した。これが士族屯田の始まりで以後、発寒・山鼻など札幌を中心に入植していった。


(4)名誉挽回の戦い

屯田兵の役割は、北辺の警備と開墾が目的であるが屯田兵として北海道に送り込まれた士族武士にとっては、望まぬ戦で敗れ賊軍の汚名をきせられた不名誉があった様です。特に薩摩・長州藩などに対する思いは強かった様です。この思いをはらす戦いが明治10年に西郷隆盛が決起して九州一円を巻き込んだ「西南の役」でこの時、北海道に配置された士族屯田兵も徴集され西郷軍との戦いにも参加しています。その時の屯田兵の戦いぶりは凄まじく諸藩の兵士を驚かせるものであったとの言われていますし戦を終えて帰って来た人々は意気揚揚であったと言われていますからどの位戊辰戦争の悔しさがあったのか計り知れません。


(5)平民屯田兵の始まり

明治7年から始まった士族屯田に替わり明治23年から北海道警備の目的と地方開発のために平民屯田へ切り替えられた。その理由のひとつに金子堅太郎の北海道視察があった。当時は、帝政ロシヤが不凍港を探して南下策をとっていた事から帝政ロシアに脅威を感じた金子は、北海道に多くの人々を入植させる事が日本防衛につながると政府に報告、これを受けて政府は、明治24年、第一陣として旭川の永山地区に平民屯田兵約200戸、第二陣として旭川村、第三陣として当麻村に屯田兵として多くの人々と家族を送り込んだ。


(6)屯田兵制度の廃止

明治7年から始まった屯田兵制度は、明治23年までは、士族の授産を主な目的として募集されが明治24年以降は、平民から募集され北海道の開拓に大きな足跡を残し明治33年に屯田兵の募集は停止され明治36年に制度が廃止された。この29年間に造られて屯田兵村は、37ヵ所、戸数7337戸、家族を含めて人数39911人が入植して北海道の基礎をなした。


(7)屯田兵としての戦争

兵農一致が原則の屯田兵が関わった戦争は、西南の役や日清戦争、屯田兵制度が廃止されて臨時徴集された日露戦争がありました。特に明治37年に勃発した日露戦争では、多くの屯田兵村から屯田兵と入植した人々が乃木大将が率いる第7師団に編入されて旅順港を制圧する為にロシアのステッセル将軍が築いた要塞があった二百三高地を攻撃、激戦の末、二百三高地を制圧、要塞を陥落させ日露戦争の勝利に貢献した。ただ、戦死者も多く出した。


(8)屯田兵制度の成果

屯田兵制度により多くの人々が本州から未来に希望を抱いて北海道に入植し開墾した面積は、約74000ヘクタールにのぼりました。但し、屯田兵の入植がすべての地域で成功したわけではありませんでした。
地域によっては、「悲劇をきわめた部隊」として根室の和田兵村があり、開墾しても気候の違いから作物が収穫出来ずに失敗した例も沢山ありましたし個人差もあった様です。与えられて土地がある者には、十数万円の価値があると思えば、ある者には、五万円にもならないといった様な運もあった様です。ただ、この屯田兵制度が今日の北海道の礎になっております。



























































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