北海道第二の都市の旭川市の起こりや歴史を紹介

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北海道第二の都市の旭川市の起こりや歴史を紹介

旭川の歴史



 神居古潭  (神居古潭)
昔から交通の難所とされ、アイヌ伝説も残っている場所です。神居古潭は、交通の要であり、砦でもあった場所でこの神居古潭を境に上流側を「ペニウンクル」(上)、下流を「パニウンクル」(下)と呼んでいたと言われていました。

(1)旭川のあけぼの

江戸時代、北海道は、東蝦夷と西蝦夷に別けられ統治されたが上川地方は、和人が足を踏み入れる事がなかなか出来なかった場所から別名「奥蝦夷」とも呼ばれていた。
北海道の開発が始まるのは、伊藤博文の左腕とも言われた金子堅太郎が明治初期に北海道を視察したのが始まりとも言われている。
当時は、帝政ロシアが不凍港(凍らない港)を求め南下していた事から国の防衛には北海道を死守しなければならなかった事から明治7年から屯田兵制度が始まり、のちに平民屯田制度に移行して行った。
その平民屯田兵制度の第一陣が現在の旭川の永山地区に明治24年に入植したのが始まりです。
ただ、旭川の開墾の計画は、北海道初代長官の岩村通俊一行が明治18年に来旭し上川盆地が一望出来る山から「上川地方の国見」をした事からです。
只、旭川の和人の定住は、明治6年頃に鈴木亀蔵が最初とも言われています。のちに亀蔵はアイヌ・メノコと結婚した事から旭川では、和人の定住者の第一号の人物でもあります。
明治18年の国見は、北海道初代長官岩村通俊一行が石狩川を遡り、近文山から忠別太原野(現 上川盆地)を視察し、上川盆地の開発の重要性を認めた。この視察で「北京を上川におくの議」の建議書がもととなり明治22年、上川離宮造営地設定が内閣に働きかけられるが明治37年の日露戦争で残念ながら立ち消えとなってしまいました。当時の岩村の考えは、北海道の内陸に多くの人々を入植させると自然に周囲にも開墾地が広がり発展するとも考えていた様です。
明治19年、囚人を使い上川地方の開発のための道路開削が開始された。これが石狩道路の始まりでのちに網走道路とつながり北海道の東西を貫く道路となるが多くの囚人の犠牲者を出す結果となった。


 旧永山戸長役場 (旧永山戸長役場)
明治24年に石狩国上川郡永山村戸長役場の庁舎として、永山村が建築したもので明治初期から大正10年まで町村の行政事務を執行する機関として使われていました。また、旭川市永山地区は、士族屯田から平民屯田に替わっての第一陣が入植した場所です。
 

(2)旭川村の誕生

明治23年、上川郡に神居村・旭川村・永山村の三村が置かれた。当時は、まだアイヌの人々が697人しか住んでいなかった土地です。
明治24年、平民屯田第一陣が永山村に入植し、翌25年に旭川村(現在の東旭川地区)、26年に当麻村、三村で千二百戸が入植して開墾の鍬が下ろされた。屯田兵は、兵農一致が原則で午前中は、兵隊としての訓練をし午後からは開墾をする日々で大変な苦労だった様です。
明治27年、日清戦争が勃発し旭川の屯田兵も札幌の北鎮第七師団に編入されたが出陣命令が下る前に講和となりました。
明治31年、上川鉄道(旭川〜滝川)が開通して人々や物資の運搬が盛んになり北海道第二の都市への足掛かりともなった。
明治33年、北方警備のため、札幌から北鎮第七師団が移駐し、旭川が軍都として全国に知られる様になりました。この頃から別名「軍都・旭川」とも認識される様になった。余談ですがこの頃に札幌より国が創建した靖国神社と同じ北海道護国神社も移り現在でも屯田兵や日清、日露、第二次世界大戦での戦没者の英霊が約65000体、護国神社に祭られています。
明治35年1月25日の早朝、旭川の観測所が日本最低気温マイナス41度を記録。この日、青森の部隊約210名が八甲田山の雪中行軍の訓練に出陣し遭難、僅か10名しか生存していなかった悲劇が起こりました。この時に捜索隊に入ったのが道南アイヌの一団とアイヌ犬と言われアイヌの自然への適用力の凄さを知らされたとも考えられています。
明治37年、日露戦争が勃発し北鎮第七師団も出兵、すでに屯田兵制度は、廃止されていたが出陣命令が下り乃木将軍の第三軍に編入され激戦の末、203高地を奪還して北鎮第七師団が「陸軍最強部隊」と呼ばれる由縁となったと言われています。この事がのちの第二次世界大戦の時の悲劇へと繋がります。


 北鎮記念館  (北鎮記念館)
軍都・旭川とも呼ばれ、北方警備の要として配置された北鎮第七師団の資料や屯田兵、日露戦争、第二次世界大戦、PKO活動などの資料が展示されている記念館です。

(3)大正から激動の昭和へ

旭川には、石狩川を本流に牛朱別川、美瑛川、忠別川、オサラッペ川の4支流が神居古潭渓谷の手前、旭川市内付近で合流している事から度々洪水を起こっていました。その中でも最大の洪水が大正4年に起きた大洪水で壊滅的な打撃を受けました。
大正11年、市制が施行され旭川市が誕生、この年、石北線旭川〜愛別まで開通し昭和7年に網走まで全通して旭川市が物流の拠点としてしての一躍を担うようになります。この鉄道網の発達により旭川では、オホーツク海や太平洋の海の幸や内陸である事から山の幸など北海道の味覚が揃わない物が無いと言われる様になりました。
昭和3年、上川産米が百万石(約十五万トン)に達し上川地方は、米どころとして有名になりました。只、当時の米は、本州では、人気が無くどちらかと言うと家畜の餌となる事が多かった様ですが現在では、品種改良が進み特に
「きらら397」が開発されてから急激に新品種米、「ほしのゆめ」、「ななつぼし」。「ゆめぴりか」など全国に知られる様になりました。
昭和6年、治水対策のため牛朱別川切り替えを完成させあと地に将来を見据えてロータリーを造り交通の円滑化を図りました。当時は、大都市にしかロータリーはなく東京以北では旭川が最初の試みです。ちなみに北海道でロータリーがある街は、旭川市と釧路市(幣舞橋のたもと)にしかありません。
昭和7年、木造の旭橋から鉄骨の旭橋に架け替えられ「軍都」旭川の象徴となり現在は、旭川のシンボルともなっています。第二次世界大戦の時は、北鎮第七師団の兵隊がこの橋を渡り戦地に送られ多くの兵士が帰らぬ人となり今も旭川の北海道護国神社に英霊として祀られています。ちなみにこの旭橋の建設費は、当時の金額で約104万円と言われていますから現在の金額に換算すると約30億円位とも言われています。また、旭橋の特徴は、アーチ型の構造にあり、当時の爆撃で橋脚2本が壊されても橋が落ちない構造になっています。ただ、現在の爆撃では到底、破壊されると思います。また、現在でもアーチ部分の留金リッペとは1本も緩んでいないとも言われますので当時の技術の高さを証明している橋とも言われています。


 旭橋  (旭 橋)
旭川を代表する建造物の旭橋は、昭和7年に完成した鉄骨のアーチ橋で当時の建設費で約104万円をかけた橋です。また、橋脚が壊されても橋が落ちない構造になっているのが特徴です。

(4)躍進する旭川

昭和20年、終戦となり、旭川にも進駐軍が駐留して偕行社に本部を置き民主化の道を進み始めました。
昭和21年、旭川雪まつり(のちに冬まつり)が開催され、市民は、厳しい寒さを忘れて楽しみ平和を実感する冬のお祭りとなっていきました。
昭和35年からは、市や商工会議所が主催してスケールも大きくなり今では、ギネスブックに雪像の大きさでは世界一となって登録されています。
昭和41年、旭川空港が完成して道北・道東の玄関口として大雪山登山の入り口として多くの観光客が利用しています。現在は、国際線も就航し旭山動物園や大雪山登山、美瑛や富良野の観光の拠点ともなっています。
昭和47年、全国初の歩行者専用道路「買物公園」がオープンしました。
昭和51年、市民の木に「ナナカマド」が選ばれ、花に「ツツジ」、鳥に「キレンジャク」、虫に「カンタン」が選定されました。
旭川市は、現在、北海道の中核都市として発達していますし観光の拠点としての機能も果たしている北海道第二位の人口を有する都市です。











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