聖帝ロシアの南下策に対する北海道の防衛の為に使役された囚人達の苛酷な囚人労働と業績などを紹介
聖帝ロシアの南下策に対する北海道の防衛の為に使役された囚人達の苛酷な囚人労働と業績などを紹介

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聖帝ロシアの南下策に対する北海道の防衛の為に使役された囚人達の苛酷な囚人労働と業績などを紹介

囚人労働



 樺戸博物権  (樺戸博物館・月形)
北海道で最初の集治監で明治15年から大正8年までの39年間、樺戸集治監又は樺戸監獄として多くの囚人を収容していた本庁舎の建物です。足元の石段は、囚人が通った事から擦り減っています。

(1)北海道の集治監の起こり

明治10年、鹿児島で勃発した西南の役に端を発し、明治政府は、西郷隆盛などの反乱軍を鎮圧をしたが世情不安からくる犯罪者や賊徒などが横行し、捕らえても集治監の不足と収容人員の限界から明治11年に元老院にて日本全国の重罪囚を日本の島地へ集結させる総懲治監建設の計画を建て候補地に北海道を決定した。只、当時の犯罪者の多くが国事犯と言われてもいます。その訳は、旧徳川幕府軍などの家臣が明治政府の転覆と再び幕府の復活を試み、明治政府と戦う為の軍資金を得る為に強盗などを繰り返した事が犯罪者を多く作ったとも考えられています。


(2)北海道の視察

伊藤博文内務卿の官命により月形潔一行7名が当時の開拓使次官 黒田清隆の推薦する三候補地の視察の為に明治
13年4月に手分けして調査に入った。
三候補地は、「後志国・蝦夷富士山麓」、「十勝国・十勝川の沿岸」、「石狩国・樺戸郡シベツ太」で視察結果は、蝦夷富士山麓は、すでに開墾が進み人家も近く破獄などの際には被害が出る事が予想され不採用になり、十勝川の沿岸は、人の分け入る道すら無く海が遠浅で船舶の利用が望めない事から不採用になった。樺戸郡シベツ太は、背後に山脈が連なり前面には、石狩川が流れ人家も無い事、更に豊富な森林があり獄舎や官舎に使う木材を調達しやすく水路を使えば運搬も出来る適地であった。


 囚人墓地  (囚人墓地・月形)
樺戸集治監に収容されて使役などにより死亡した囚人達の墓で家族や親類にも引き取られる事がなかった遺骨をここに集めて埋葬された囚人達だけの墓地です。

(3)樺戸集治監(現 月形町)

明治13年、「石狩国・樺戸郡シベツ太」に集治監建設が決定され、翌14年に約1500名収容の樺戸集治監が完成。本州からの囚人の移送が開始された。開監からの5年間の囚人の移送人員は、合計で1906名、死亡囚340名におよぶ。初代典獄には、月形潔が任命され月形の理想とした農耕集治監としての第一歩を歩み始めた。


 空知監獄署出張所の跡  (空知監獄署出張所の跡・旭川)
主に石炭の採掘に使役された空知集治監の囚人達は、道路開削の時は、主に屯田兵屋の建設に従事していた。動く監獄のひとつでもあります。

(4)空知集治監(現 三笠市)

明治15年には、空知集治監が開監した。当初は、樺戸集治監と同様に農耕集治監を目指したが石炭の利用が進むにつれ次第に農耕から採炭に囚人を使役する様になっていった。明治20年には、幌内鉱の採炭経営が空知集治監に移行された事により更に劣悪な環境下での囚人労働が行なわれた。


(5)道路の開削

第二代安村治孝典獄の時代になると農耕・採炭のほかに道路の開削にも重点が置かれる様になっていった。その理由は、伊藤博文の左腕とも言われた金子堅太郎が伊藤博文の命を受け北海道視察に端を発する。当時の帝政ロシアは、不凍港を求めて南下策をとっていてこの事実に脅威を感じた金子は、日本国防衛には、北海道により多くの屯田兵の入植が不可欠と考えその為には、道路の開削が必要であるから賃金の安い囚人を使役して開削に当たらせ囚人が死亡しても監獄費が節約になる事などを明記して提言した。


 樺戸監獄署出張所の跡  (樺戸監獄署出張所の跡・旭川)
明治18年の岩村通俊の旭川の国見から上川道路の開削が始まり、北海道を札幌から旭川を経由して網走まで続く囚人道路のひとつでありまし。

(6)上川道路

明治19年に上川道路の開削が開始され札幌から忠別太(現 旭川市)迄の仮道が完成して明治24年に道路幅三間(約5.4m)に拡張された。この時の逸話に「日本一の直線道路」となった美唄・滝川間29.2qの直線道路が含まれています。事の起こりは、机の上に北海道地図を開き北海道地図に定規を当てて線を引いてこれに沿って道を造れと号令を出したと言われています。


 鎖塚  (鎖塚・網走)
「罪は、死しても終わらず」の証とも言える鎖塚は、道路開削に使役された囚人達が過労の為に死亡しても鎖に繋がれて埋葬されたもので農作業中に機械に挟まり発見されたものを集めて供養塔に収めたものです。当時の囚人に対する苛酷な労働を物語るひとつでもあります。

(7)網走道路

道路開削で特に悲惨だったのが明治24年に完成された網走道路で全長約四十一里(約162km)を担当した釧路集治監網走分監の囚人達で工事着工から約8ヵ月で完成させる突貫工事であった。あまりの速さで工事が進まされた事から動く監獄とも呼ばれた。突貫工事の為、死者も多く死亡者数は定かではないが瀬戸瀬の病監の跡地から埋葬された67体の遺骨を始め当時の道路の傍らの畑から手錠などが発見された事から死者数は数百人にのぼると思われます。今でも当時の道路の傍らに立つ鎖塚に眠っています。ちなみに現 当麻町伊香牛地区から上川町中越地区までの約40kmが一般工夫による開削でその開削期間は、約1年を要したとの記述もある事から如何に囚人達の開削が厳しい物だったのか分かりと思います。


 アトサヌプリ・硫黄山  (アトサヌプリ・川湯)
爆弾に必要な硫黄を採掘していたアトサヌプリ(硫黄山)は、多くの釧路集治監の囚人達が使役されていた場所でもあります。また、釧路集治監の敷地内でも鎖と共に遺骨も発見されていますので刑は、「死しても終わらず」の証だとも言われています。

(8)アトサヌプリ(硫黄山)

網走道路に匹敵する惨劇の地がアトサヌプリの硫黄採掘です。明治30年に釧路集治監(現 標茶町)で行なわれた合葬の際、硫黄山外役所などから集められた遺骨の中に手錠を掛けられたままの遺骨が何体かあり「死しても自由は得られず」を物語る当時の囚人に対する扱いを示した出来事です。


(9)心の開墾

第三代大井上輝前典獄になると幌内鉱やアトサヌプリ硫黄山から囚人の使役を廃止し、全集治監にキリスト教を布教した人物です。囚人達の心を開拓し、再犯を少なくした典獄です。このキリスト教の布教により再犯率が急激に下がり成果を得たのであるが当時の仏教会からの反発を受け典獄の交代を余儀なくされた。


(10)歴史の中での集治監・・・

日本最大の集治監として明治14年に開監した樺戸集治監を始め明治15年の空知集治監、明治18年の釧路集治監、明治24年の釧路集治監網走分監、明治28年の空知集治監十勝分監と時代の流れにほんろうされながら大地の開墾をした月形典獄や道路の開削をした安村典獄、心の開墾をした大井上典獄と典獄も代わり、第八代典獄 関省策の時、集治監としての役目を終え39年間に及ぶ歴史を閉じました。北海道の現在の姿の基礎には、囚人達の犠牲があり、月形町の資料館や網走監獄博物館・鎖塚などが当時の歴史を物語る数少ない資料です。






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