大正15年に起きた十勝岳大正泥流。144名の命を奪った大正泥流の被害の歴史をご紹介
大正15年に起きた十勝岳大正泥流。144名の命を奪った大正泥流の被害の歴史をご紹介

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大正15年に起きた十勝岳大正泥流。144名の命を奪った大正泥流の被害の歴史をご紹介

十勝岳・大正泥流


十勝岳大正泥流は、三浦綾子の小説「泥流地帯」の題材となった大正15年に起きた十勝岳大正泥流。144名の命を奪った大正泥流の歴史をご紹介。




(十勝岳大正泥流)
太古の昔から噴火していた十勝岳。明治30年に入植し開墾が始まった上富良野。その上富良野を襲った未曾有の大災害が大正15年5月24日に起きた十勝岳の噴火で、この年は例年に無く雪が多く十勝岳に積もっていた事が泥流の原因でその日の昼頃に1回目の噴火が起き火口の約2km下にあった硫黄採掘の為の作業員の宿泊所が泥流に襲われ、その後、16時頃に2回目の噴火により上富良野の街が泥流に襲われた。泥流の時速約60kmで上富良野の街を襲い死者123名、行方不明21名が現在も発見されていません。当時の大正政府は、上富良野を放棄して別の地をと指示されたが再開拓をして上富良野の復興を遂げた話と大正泥流をご紹介。




十勝岳大正泥流


 泥流地帯の碑  (泥流の碑・泥流地帯)
大正15年に起きた惨事の十勝岳の噴火による泥流が上富良野を襲い多くの死者や行方不明を出した。その泥流が止まった場所に建てられた泥流の碑。三浦綾子の小説「泥流地帯」の原案となった場所です。


(1)十勝岳の成り立ち

北海道の大雪山国立公園の中の十勝岳は、現在も噴煙を上げる活火山です。火山といえば高くそびえ立つ富士山や北海道では羊蹄山が典型的な事例で美しい円錐形で山頂には火口の窪みがある山をイメージする人が多いと思いますが十勝岳は、違いオプタテシケ山から美瑛岳、十勝岳、富良野岳、前富良野岳に至る火山群が連なっています。十勝岳の基盤は、北見山地から日高山脈に達する北海道の背骨にあたる場所に大雪十勝火山群があります。この背骨は、オホーツクプレートがユーラシアプレートに衝突した事によって形成されたものと言われています。


(2)十勝岳に関する噴火の歴史

十勝岳の噴火が古文書などに記録となって残される様になったのは1857年(安政4年)の活動からで安政4年に松田市太郎は「焼山」の激しい噴火活動を目撃し、同じ年に松浦武四郎が石狩日記に記録し、翌年に訪れ山麓から立ち上がる噴煙をスケッチしている。
1887年(明治20年)この地域の鉱床調査に訪れた大日方伝三は、十勝岳が年々大噴出をする事、数回と報告している。
1926年(大正15年)1923年頃から噴気活動が活発になり、大正15年の春、5月24日に破壊的な大泥流を伴う噴火を起こし美瑛、上富良野を巻き込む大災害を起こした噴火がである。後にこの噴火が起こした泥流などから通称
「大正泥流」と呼ばれる様になり、また、この噴火の悲惨さを小説にしたのが旭川の出身の作家、三浦綾子でその小説のタイトルが「泥流地帯」である。
1962年(昭和37年)大正15年の噴火直前の火山活動と似ている事から気象庁は注意を呼びかけたが硫黄鉱山の操業が続けられた為に死者を出した事もあった。この時の噴火で吹き上げられて噴煙は、高度1万2000mに達し、降灰は道東一帯に広がり遠くは、千島列島のウルップ島南方を航行中の船上にも達した。
1988年(昭和63年)〜1989年(平成元年)には、現在も噴煙を上げてる62−U火口から小規模な水蒸気爆発が始まり冬だった為に泥流が発生するのでわ?との噂も流れたが小噴火で影響は無かった。


十勝岳   (十勝岳・上富良野)
今も活動をしている十勝岳。古文書にも噴火活動の記載がある活火山で今日までも噴煙を上げている十勝岳連峰の代表する火山です。因みに紅葉の時期は、絶景を見せてくれる山のひとつでもあります。


(3)1926年(大正15年)の十勝岳の噴火活動

大正15年5月24日12時11分に第1回目の爆発。この時の水蒸気爆発で発生した泥流が今の白金温泉(当時の畠山温泉)を襲った。続いて16時17分に第2回目の爆発。この水蒸気爆発が大正泥流と呼ばれる泥流を引き起こし美瑛や上富良野を襲い死者123名、行方不明21名を出す大災害を起こした。


(4)第1回目の十勝岳の噴火

第1回目の噴火和は、12時11分、硫黄採掘の平山鉱山の元山事務所では、突然の爆発音と岩石の崩壊するような響きが5〜6秒聞こえた。この爆発音は、上富良野や志比内でも聞こえたと言われています。この時の噴火で小規模な泥流が発生し望岳台近くにあった丸谷温泉や畠山温泉の風呂場を破壊、宿前の橋を流した。


(5)第2回目の十勝岳の噴火

16時17分過ぎに2回目の大規模な爆発が起こり泥流が再度発生。この時の海抜1,000m付近にあった元山事務所では、積雪が1m以上あり、真冬より気温が高かった為に山津波となって泥流が元山事務所を襲った。爆発音を聞いてから火口より2.4km離れた元山事務所に泥流が到達するまでの時間は、わずか1分までもかからなかったと推測されています。これが一次泥流でこの後に二次泥流が起き美瑛川と富良野川に分かれて流下。富良野川を流下した泥流が火口から25km離れた上富良野を爆発後25分余りで襲い死者・行方不明者を出す大惨事を起こした。ちなみにこの泥流の速さは時速にすると60〜80km位ではなかったかと推測されています。


(6)被害状況

この泥流による被害は大きく上富良野・美瑛を併せて死者123名、行方不明者21名を出す災害でした。その他の被害としては、全壊住宅数45戸(災害史によると54戸)、森林の被害面積は、650haで木材の丸太価格(平成14年度)から想定すると約17億円にのぼり、泥流に埋め尽くされた水田・畑は、上富良野では水田が5000反、畑は、2250反、美瑛では水田が400反、畑が2760反、中富良野では水田が1345反と報告されています。


(7)復旧活動の開始

5月の25日には、鉄道の復旧工事と遺体の捜索が始まりました。鉄道の復旧には、保線工手400人、人夫200人が動員され鉄道線路の上に約60cmも溜まった泥土や流木を片付けレールなどを敷設し28日に開通しました。遺体の捜索は、泥土が深い所で数尺にも達し流木などもある事から歩いて捜索する事もままならない状態であったがボートによる捜索が泥土の中の移動を容易にし富良野警察所長の指揮のもと捜索が開始された。8月26日にいったん終了したがその後も発見され昭和2年7月8日に上富良野で遺体が発見されたのを最後に行方不明者21名と報告された。


 噴煙たなびく冬の十勝岳連峰  (冬の十勝岳・上富良野)
十勝岳連峰には、標高が2000mを越える山が3つあり、その主峰が十勝岳です。十勝岳の名の由来は、十勝平野を流れる十勝川の源がこの山にあるから名付けられたと言われています。


(8)復興か放棄か?

とりあえず救護活動が一段落した6月5日、吉田村長が事務を総括する事になった頃に上富良野の復興するか放棄するかが本格的に論議される様になった。放棄説は、被災した田畑の土には硫黄や亜硫酸などが多量に含まれ田畑を元に戻すには莫大な費用がかかる事から放棄して未開地に移住して出直した方が良いというもので実際に十勝の伏古や帯広から入植の勧誘の話もあった。これに対して復興説は、被災した田畑は三重団体の人々が移住して約30年の苦労の結晶であると共に田畑の時価は数百十万円に対し復興にはこれほどの金額がかからないと言う説であった。道庁も態度を決めかねていたが吉田村長は復興の決意を崩さず6月24日に道庁は復興を決定し予算総額112万297円を決定した。


(9)再生の経過

客土や泥流土の除去の作業は昭和3年にとりあえず完了し昭和6年〜7年に用排水設備も完成し硫毒の濃度も下がり水田も本格的に収穫が見込めるようになった。昭和8年に水田でカエルの鳴き声が聞こえる様になった。泥流の被害にあって8年の歳月を費やして再生されました。現在では、北海道で最初のラベンダー栽培の地として夏には多くの観光客が訪れる場所として全国でも有名になりました。



































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