囚人労働の証の鎖塚や日本一長い直線道路の歴史、柱状節理、昆布の種類と歴史、五稜郭の裏話などをご紹介
囚人労働の証の鎖塚や日本一長い直線道路の歴史、柱状節理、昆布の種類と歴史、五稜郭の裏話などをご紹介

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囚人労働の証の鎖塚や日本一長い直線道路の歴史、柱状節理、昆布の種類と歴史、五稜郭の裏話などをご紹介

北海道の雑学(第五章)


北海道の雑学(第五章)は、囚人労働の証の鎖塚や日本一長い直線道路の歴史、柱状節理、昆布の種類と歴史、五稜郭の裏話などをご紹介。



北海道の開発における三大汚点(囚人労働・タコ労働・韓国中国人強制労働)のひとつである囚人労働の証拠と慰霊の鎖塚、層雲峡の渓谷美である柱状節理・横臥柱状節理・板状節理の形成される原理、日本で一番長い直線道路と二番目に長い道路、北海道の昆布の歴史や北海道で取れるコンブの種類、函館の五稜郭建設の裏話などをご紹介。




鎖 塚


 網走の鎖塚  (鎖 塚)
北海道の開発における三大汚点のひとつである「囚人労働」の証拠とも言える「鎖塚」。道路の脇に祠と共に大きさは大小ありますちが建っています。ちなみに他は、「タコ部屋労働」と「韓国・中国人強制労働」と言われています。

国道333号線、北見峠頂上附近から網走までの道路脇に幾つも点在する鎖塚は、明治の北海道開発と当時の国内・国際状況を物語る負の遺産でもあります。
明治18年から始まった北海道の西から東へ中央部を貫く本格的な道路開削は、多くの囚人を使役し造られた道路です。特に厳しかった道路が現上川町中越から網走までの区間で多くの囚人が過酷な労働により命を落とした道路でもあり、現在もその一部を基盤に道路が拡張され使用され、その傍らに鎖塚がひっそりと建っています。
当時の考えは諸説色々ありますが「死しても刑は終わらず」とも考えられていた様で実際に当時の集治監の病棟跡地附近から死亡した囚人が鎖をつけたまま埋葬された遺骨が発見された記述もありますし畑をトラクターでおこしている時に音がしたので調べると鎖が出てきた記述もありますから当時は、囚人に対する扱いは死亡しても構わないのが当たり前の事だったのかも知れません。ちなみに当時の囚人の約8割が明治政府に対する国事犯であったとも言われていますが罪名が付いていますのではっきりはしていません。



柱状節理


 車石・花咲岬  (根室・車石)
昔の木造の荷車の車輪の様に板状の石が半円になっている「車石」で花咲岬の駐車場から降りて岬に向かって行き先端に着いた時に振り返ると見る事が出来ます。

北海道を代表する渓谷が続く層雲峡。柱状節理が織り成す渓谷美は、雄大で見る者を圧倒します。この渓谷美を形成しているのが柱状節理と呼ばれる岩壁です。
柱状節理には、柱状節理・横臥柱状節理・板状節理の3種類に分類されています。層雲峡などで見られる縦長の岩が柱状節理、網走から斜里に向かう途中に見られる横長になっている岩が横臥柱状節理、根室の根室車石が板状節理です。柱状節理が形成される原理は、火山の噴出物が熱いうちに結合して急激に冷やされた事から出来たと言われていますが結合する時の岩の成分によっても違うようです。柱状節理は、自然が創り出した芸術でもあります。



日本一の直線道路


 斜里・天上に続く道  (天上に続く道・斜里)
日本で二番目に長く美しい直線道路としては、国道334号線の知床半島の付け根の斜里町の街を突き抜ける道路です。約27qの直線道路です。最後は、道路が見えなくなる事から「天上に続く道」と呼ばれていますよ・・・!

北海道を旅行した人に北海道の印象を聞くと必ず言うのが直線の長い道路と道幅の広さが印象に残るようです。実際に北海道には、十数キロの直線道路はいたる所にありますしそれが北海道の広大さを更に印象的にするのだと思います。その中でも特に凄い道路が札幌から旭川間の国道12号線で美唄〜滝川間の29.2kmの直線道路です。
この道路は「日本一長い直線道路」である事をご存知でしょうか?この道路の開削の起こりは、明治の頃の政帝ロシアの南下策にあると言われています。当時の北海道は、札幌近郊にしか屯田兵が配置されておらず特に内陸部からオホーツク沿岸にかけての人口の少なさが北海道並びに本州の防衛には十分な状態では無かったからとも言われていますし明治維新からの犯罪者の増加など政治的な諸説は色々あるようですが北海道を西から東へ貫く様に道路が造られ、その一部に日本一の直線道路が出現した事です。
この道路を開削に当たったのが主に当時の樺戸と空知両集治館に収容されていた囚人達が使役されました。開削当時の北海道は、札幌や函館地区・その他の一部の地区を除くと殆どが原始林に覆われた世界であったと言われていますから道路を造るのは大変ですが計画は簡単であったようです。資料の中には、この道路が計画された時は事前の調査などが余り無い状態で机の上に北海道地図を広げて定規を当てて線を引き道路開削計画が作られたとの記述が残っていますし当時の北海道防衛と多くの囚人の使役・北海道の開発が目的であったとの記述もあります。資料によって色々な記述がありますが北海道開発には必要不可欠な重要な道路であった事は間違いありませんしその一部に日本一長い直線道路が造られたのは、やはり北海道の広大な大地があった事からだと思います。ちなみに日本で二番目に長い直線道路は、小清水町から斜里町宇登呂に向かう国道334号線の道路で斜里町を貫きながら約27qの直線が二番目に長い道路で、別名「天に続く道」とも呼ばれています。この道路の名の由来は、知床半島の付け根付近で直線道路は終わるのですがその終了地点付近は高台でそこから見る光景が左奥に斜里岳が見え直線道路が最後は見えなくなっている事からと言われています。行く機会があれが立ち寄るのがお勧めです。



昆布の歴史


 昆布干し (昆 布)
北海道沿岸では、色々な種類の昆布がありますが羅臼昆布は、一説ではありますが「戊辰戦争」の時に薩摩藩の軍資金の一部になったとも言われていますよ。

料理に使われ縁起物とされ家庭でもよく食べられる昆布。皆さんは、昆布の歴史をご存知でしょうか?昆布が文献に登場したのは、767年に書かれた『続日本紀』で「蝦夷の酋長が朝廷に対し先祖以来、昆布を献上し続けていると報告した」との記述があるのが始まりだとも言われていますから日本人と昆布の係わりはとても古い事が解ります。その頃には、昆布と呼んでいたのでしょうか?昆布の語源については、三説あり、「アイヌ語起源説」「日本語起源説」「中国語起源説」があると言われています。
「アイヌ語起源説」では、「水中の石の上に生ずる草」をアイヌ語で「こむぶ」と言う事から「こんぶ」に転じた説。
「日本語起源説」は、蝦夷から胡(こ)の賦(ふ)「貢ぎものという意味」になり、「コフ」から「コンブ」になった説。
「中国語起源説」は、アイヌとの交易から昆布の事を「綸布」(くわんぶ)と呼んでいた様ですが次第に訛って「クワンブ」が「コンブ」になったとも言われています。
昆布は、平安時代には朝廷の仏事や神事に欠かせないものとなり精進料理に用いられるようになった。鎌倉時代には、仏教文化とともに人々の生活にも精進料理が普及して武家の食卓に広がっていった。室町時代には、蝦夷と越前・若狭を結ぶ日本海航路が開発された事が昆布が都の食卓を飾るようになり、様々な昆布の調理法も登場してきました。江戸時代には北前船により大量の蝦夷の海産物が富山や大阪さらには薩摩にまで運ばれ琉球を通り中国との交易に使われました。また、元禄の頃になると昆布もとろろ昆布などの加工昆布が盛んに製造される様にもなってきました。昆布が中国との交易で莫大な利益を得た事から明治維新が起きた時の資金源にもなった説があります。この説は、現在の北海道の羅臼には、多くの富山県の人が出稼ぎに来ていて昆布などの海産物が富山に運ばれそれが薩摩藩に渡り薩摩藩が中国と密貿易で漢方薬の原料を仕入れそれを富山に送り富山で薬に加工して全国に置き薬として販売され莫大な利益が薩摩藩の軍資金になったと言う説です。実際に幕末の頃の薩摩藩は入藩には厳しい検問があったとも言われていますのでまんざら嘘でもないかも知れません。
明治時代には、政府によって産業保護の政策により昆布業は発展を遂げ大正・昭和・平成と食卓を飾っています。また、北海道の昆布の種類は、道南の渡島から函館・恵山にかけての「真昆布」、利尻・礼文・稚内・オホーツク海沿岸網走にかけての「利尻昆布」、知床半島根室側沿岸のみに生息する「羅臼昆布」、三石昆布とも呼ばれ日高地方から十勝沿岸にかけての「日高昆布」、釧路から根室半島にかけての「長昆布」、道南の福島町から日本海沿岸の羽幌にかけての「細目昆布」、長昆布と生息地域が同じの「厚葉昆布」、函館・室蘭など真昆布と同じ地域に生息している「がごめ昆布」、耳昆布とも呼ばれる長昆布・厚葉昆布と同じ地域に生息する「ねこあし昆布」、室蘭地方の一部に生息する「ややん昆布」、根室沿岸にしか生息しない「くきなが昆布」などが生息しています。



予算不足の五稜郭


 五稜郭タワーからの五稜郭  (五稜郭)
五稜郭は、敵からの攻撃に対し死角が無い要塞とも言われていましたが函館戦争の時は、函館湾からの新政府軍の戦艦からの砲撃で館が焼失したと言われています。現在の館は、復元されたものですよ・・・!

函館観光で代表的な場所と言えば?やっぱり函館山から見る100万ドルの夜景と日本で最初の洋式築城で城内から一斉射撃を行うと十字火網となり攻撃軍に死角を与えない設計の五稜郭が有名ですが、五稜郭が予算不足と完工のスピードアップを望む周囲の状況から設計者・武田斐三郎の満足できる陣地にはならなかった事をご存知ですか?
五稜郭は、安政四年に着工し八年後の元治元年(1864)に完成しましたが五稜郭の北と東北面の重要な積石の殆んどが河原石で積みあがられ、積石の奥行きも通常であれば見つけ面の約3倍が必要とされていたのが見つけ面と同じ奥行きの量しか石を使っていない事からも武田斐三郎が苦しい金繰りの中で建設であった事を物語っていると言われています。只、その中でも科学者としての武田斐三郎の技量はいかんなく発揮されており、砲撃に際して一番重要と思われる場内強化に優れた構造がみられます。









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